昔継体天皇が当国においでの時、熊野の神を信仰され、勧請の地を求めて愛鳥の「鴬(うぐいす)」を放ったところ、この山蔭で初音を鳴かせたので、ここを宮所と定め「初音宮」と称し、この地を「鴬の関」と名付けられたと言われています。
朝倉時代には、神社前の馬場において「流鏑馬(やぶさめ)」が行われていたと言う記録もあります。 江戸時代までは、脇本の庄六ヶ村共通の尊崇社でした。
昔継体天皇が当国においでの時、熊野の神を信仰され、勧請の地を求めて愛鳥の「鴬(うぐいす)」を放ったところ、この山蔭で初音を鳴かせたので、ここを宮所と定め「初音宮」と称し、この地を「鴬の関」と名付けられたと言われています。
朝倉時代には、神社前の馬場において「流鏑馬(やぶさめ)」が行われていたと言う記録もあります。 江戸時代までは、脇本の庄六ヶ村共通の尊崇社でした。
福井県を嶺北と嶺南に分ける地である。
1200年の間、越前の玄関口としての番所があり前川家がその任に当たった。
この一帯は度重なる古戦場として使われ、一向一揆の頃の城址が多く、歴史的にも非常に興味の持てる峠でもある。
お地蔵様に殺人の現場を目撃された権六という馬子が「地蔵言うなよ」とお地蔵様に口止めをしたところ「地蔵言わぬが我言うなよ」と言われ山を降りた。
後日、殺した旅人の息子と出会い権六は因縁におののき自ら仇を討たれたという伝説の残る不思議な地蔵尊。

天正6年、柴田勝家が道を改修してから栄えた。北国街道の入口として初代福井藩主結城秀康以来、関所を設け旅人を取り締まった重要な所であった。
現在する民家の藁葺の屋根は甲(かぶと)造りで珍しいものです。
今庄の最南端に位置し、標高1,100mの山頂に満々と水をたたえる池。泉鏡花の戯曲の舞台となった伝説の池。おとずれるハイカーも思わず足を止める神秘的な池。
ある年の干ばつに弥兵次は耐えかね、池の主の大蛇に「水を田に入れてくれるなら、私の娘を嫁にあげよう」と頼み、大蛇もこれを承諾しました。
すると次の日、田に水が入り、作物が活気をとりもどし、弥兵次は大いに喜びました。
しかし約束を考えると弥兵次は悩み苦しみ、しかたなく愛娘の一人をお嫁に出しました。
娘は蛇体となり、大蛇はそれを伴って夜叉ヶ池に入りました。
のちに娘の女蛇は龍神となって、干ばつの年には雨を降らすと言われ、夜叉ヶ池は竜の住む神秘の池となっています。

宅良地区小倉谷の東方山麓にある古刹。創建は今から約600年前の嘉慶元年(1387)。
本尊として十一面観音菩薩を祭る。
「越藩古禅林」の額を揚げる苔むした山門に昔の面影を見ることができる。
享保(1716~36)の頃、医者を開業していた伊藤氏十代目の伊藤助左衛門がつくったと伝えられている。
庭園の見どころは、その地割りと配石にある。
山の斜面を利用した正面の築山にはひときわ大きい本尊石、その前の平らな石を蓮華石と言う。
手前の礼拝石と三石を結ぶ直線が中心の軸となり、左右が対称であるよう調和を持たせている。
文部省指定の名勝。

親鸞より数えて8世紀にあたる蓮如上人は、浄土真宗中興の祖。
これは文明3年(1471)本願寺破却の折、蓮如上人が比叡山の山法師に追われたときにやむなく難を逃れて西近江路を越前に下向された。
養老3年(719)、孫嫡子は17歳のとき、奈良の東大寺で出家した。
修行後、藤倉山に帰り、父(光明童子)の形見であった如意輪観音像を奉じて御堂を建て、多くの旅人たちの病を癒した。
孫嫡子神社は、昔から天然痘を癒す神社として有名である。

町並みはいまもなお、昔の面影を残し、素朴な雰囲気を漂わせている。
角を曲がって路地裏に足を踏み入れると、そこはもう時代劇の宿場町、タイムスリップ気分が味わえるはず。

寿永2年(1183)木曽義仲が築城。
義仲の軍勢は、平氏軍10万と戦った際、平泉寺の長吏斉明の裏切りにより敗北したと伝えられている。
源平盛簑記には「北陸道第一の城郭なり」と唄われ、今も砦や本丸跡には石垣、その周囲には空堀や切り堀などがある。
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